妖館 −三月十九日−

 全身に感じる鈍い痛みで目が覚めると、鞠子の顔と天井が見えた。
「やっと目が覚めた。気分はどう?」
 鞠子の顔を見て、すぐに思い出したのは、自分がこの家に閉じ込められている事だった。
 そしてその直後に、鞠子の弟に階段で突き飛ばされたのを思い出した。
「あのやろっ、イツッ!?」
 起き上がろうとしたら、左の足首に痛みが走った。
 見れば靴を履かされたままベッドに寝ている状態で、痛みがある足の靴をそっと脱ぎ、靴下
を下げると、異常に腫れていた。
 思わず、げっと声が漏れた。触っても痛くはないが、動かすと痛い。捻っただけみたいだ。
 骨折していない事に、とりあえずホッとした。
 が、すぐに怒りがわいて来た。
「おいっ、お前の弟、何て事をしやがるんだ!」
 鞠子は謝罪の色も顔に浮かべなかった。いつもの人を小馬鹿にするような表情だった。
「泥棒なのに、案外簡単に人を信用するのね」
 鞠子はクスクスと微笑った。
 言われて尚更腹が立ったが、鞠子の言う事はもっともだと思った。
 何であの時、すんなり弟の言葉を信じたのか。まして自分は泥棒だと言うのに。
「まあ、誠の事は悪かったと思うわ。あたしもまさか、あの子が出て来るとは思ってなかったし。
もうちょっと誠の事を見てたら、止めに入れたかも知れないわね」
 全然悪かったと思っていない口調だ。
 騙されたこちらが悪いとでも言うような雰囲気だった。
「誠は一番若いんだもの。まだ生きていたかったのにパパに殺されちゃって。相当、
生きてる貴方が羨ましかったのね」
「・・・人事みたいに言いやがって。危うく死ぬところだったんだぞ!」
「だから、あたしがずっと居てあげる。そしたら、誠も下手に貴方に手出ししないわよ」
 鞠子は妖艶に微笑った。寒気がする。
「弟は結局、日記の在り処を知らないんだな?」
「でしょうね」
 唸り声が口から漏れた。
 忌々しい。変な家に閉じ込められ、騙された挙句、足まで捻挫した。
「最悪だ」
 その時、空腹を感じた。
 そこでハッと我に返る。
「おい、今何時だ。俺はどれくらい寝てたんだ」
 時間の事をすっかり忘れていた。
 ポケットに盗んだ懐中時計があったはずた。
 時計を見ると、時刻は七時になる十分前だ。階段に落とされる前に、四時を知らせた振り子
時計の音を聞いた記憶がある。
 一時間以上眠ってしまったが、疲れた心身を休めるには丁度いい睡眠になった。
「余裕ね。もう十九日の朝なのよ?」
「な、何だと!?」
 痛む足を庇いながらベッドから起き上がり、傍の窓のカーテンを開けた。
 空は薄明るくなっている。朝焼けか!
「何を悠長に寝ていやがったんだ!」
 自分自身に腹を立てた。
 ガンッと怒り任せに窓を叩いた。ヒビが入るが、すぐに元通りになった。
「こうしちゃいられっ、くッ!」
 足の事を忘れていた。思わず踏み出した左足に痛みが走り、ガクッと膝が折れた。
 歩けない。
「湿布か何か無いのかよ!」
「探して来るわ」
 鞠子はゆっくりとした足取りで部屋を出て行った。
 少しは走ったりしろっ、と罵声したかったが、痛みでそれどころじゃない。
 鞠子を待っているのは時間の無駄だ。
 確かこの部屋の横に、風呂場があったはずだ。
 足に負担がかからないように立ち上がり、ベッドのシーツを引き剥がし、それを持って部屋を
出た。そのまま風呂場へ行き、シーツを引き裂いて水で濡らした。
 濡らしたシーツを、左の足首に何重にも巻く。応急処置なんてした事は無い。だが、要は固定
すればいいのだ。
 不恰好な包帯だが、何とか固定出来た。固定と冷やしたお陰で、大分足が楽になった。
 歩く時は壁に手を添えて、片足で進むしかない。
「時間が無ェってのにっ・・・」
 タイムリミットは何時だったか。確か午後の三時ぐらいだった気がする。
 時計を見たら、七時を過ぎていた。
 あと八時間。この足で頑張るしかない。

「はあ、はあ」
 疲れた。動く気力があまり残っていない。
 片足で歩くのが、こんなにも疲労するとは思わなかった。
 あれから何度も転びそうになりながら、一階の部屋を隈なく調べた。同じ部屋を何度も調べ、
絨毯も引っ繰り返したりしたが、日記らしき物は見つからなかった。
「もう駄目だ」
 空腹と疲労感で、もう立っていられなくなった。
 そのまま廊下の床に座り込む。
「湿布は無かったわ。お腹空いた? パンでも食べる?」
 またしても音も無く鞠子が現れた。こいつの出現にも、もう慣れてしまった。
 鞠子が持っていたバターロールが入った袋をぶん取り、パンを口の中に押し込んだ。
「母親の書斎みたいな部屋は無いのかよ」
「パパにはあったけど、ママは別に。あ、そうだ」
「何だ」
「温室。あそこでよくママは本を読んでたわ」
「温室だと?」
 如何にも金持ちの時間の過ごし方だ。
「そんなとこ行ってどうする。植物以外に何があるってんだ」
「行ってみなきゃ解らないじゃない? どうする?」
 時計を取り出して見ると、九時半を回っていた。
 少し考えて、舌打ちしてのろのろと起き上がった。
「温室は何処だ」
「こっちよ」
「お前とは一緒に行かない」
 鞠子は弟より信用出来るが、心底から信用なんてしていない。
 鞠子は少し怒った顔をしたが、あっさりと引いた。
「温室はこの廊下の奥の突き当たりのドアを出たところよ。外に通じてないから、多分出られる
と思うわ」
 まだドアがあったのか。
 廊下の奥から目をそらすと、もう鞠子の姿は無かった。
 空になったパンが入っていた袋を捨てて、壁に寄りかかりながら温室へ向かった。

 ガラス張りのドアを開けると、暖かい空気が身体にまとわりついた。
 片足で此処まで来たために汗が出て、むしろ『暖かい空気』というより『熱い空気』という
感じだった。
 様々な植物と花が咲いていた。
 こんなに沢山揃えて、何が楽しいというのだろう。庭にも沢山植物が生えているというのに。
「熱いな・・・」
 上着を脱ぎ捨てた。
 やはり植物だらけの場所だ。他には何も無い。
 ガーデニングの専門店に売っていそうな、小さな噴水が温室の中央に設置されていた。流
石、金持ちは違う、と思った。
 噴水の傍なら少しは涼しいと思い、近くへ寄った。
 そこにベンチがあり、助かったとばかりにどっかりと腰を下ろした。
「ふう」
 のんびりはしていられない。だが、この疲労感はどうにも出来ない。
 ふと噴水を見ると、植木鉢の一つが噴水の傍に倒れていた。鉢は割れ、砂はこぼれて噴水
の中にまで入っている。大方、この噴水の傍の棚においてあった鉢が、何らかの原因で落下
してしまったのだろう。
「っ?」
 植木鉢の土でよどんでしまった噴水の水の中に、本らしき物が沈んでいた。
 ベンチから身を乗り出して、その本を拾い上げた。
 元は赤かったであろう、本の表紙はくすんだ茶褐色で、長い事水の中にあった所為でボロ
ボロだ。
 慎重にページをめくると、中の文字は滲み、はっきりと解読は出来ないが、日付が書いて
ある事に気が付いた。
 これは日記だ!
 夢中になって、脱いだ上着で日記の水分を吸い取った。破れないように、はやる気持ちを
抑えながら慎重に。
「何処だ・・・何処に何が書いてあるんだ・・・」
 やっと見つけた日記だ。此処で終わらせてたまるか。
 震える手で日記のページをめくった。初めの日記の日付は十一月だ。小まめにつけている。
 読める字だけを頼りに、日記を一ページずつ読んで行った。おおよその判断で、日記は自分
の不倫の事を書き記しているのが解った。
「まだか・・・まだ何か書いていないのか・・・!?」
 不倫の事は心底どうでもいい。何か父親の無念を晴らす手がかりみたいなのは無いか!?
 日付はどんどん変わる。十二月・・・一月・・・二月、そして三月。
 三月に入って、もっと慎重に読み始めた。
 そして、この家に侵入した日付の日記のページを見つけた。土で酷くページが汚れていて、
何が書いてあるのかはっきりと読めない。
 それでも、死ぬ気で読んだ。

 三月十七日
 不倫が夫に知ら■■■■った。
 暴力を受けたが、当然の事だと■■■■たしは黙って耐え■。
 ■■■子や誠が自分の子■■■はないと思い込■■■まった。
 すべてわたしの責任だ。
 夫はもうわたしの言■■■いてくれ■い。
 このままではあの子達が

 その後は完全に読めなくなっている。
 諦めて次の日の日記を読んだ。

  三月■八日
 親戚に医者■■■良■■た。
 子ども達が自■■本当の子だと解っ■もらうには、■■■かない。
 結■■明日来るという。
 せめて鞠子と誠だけでも、■■■にいられる■■にした■。

 日記はそれで終わりだった。
 十八日の日記の内容は解りづらいが、恐らく母親はDNA鑑定を身内に頼んだのだ。
 その結果は明日、つまり十九日に出たのだろう。
 しかし、結局は間に合わなく、悲劇が起きた。
「この日記だけじゃ何とも言えない・・・。鑑定結果があれば・・・」
 結果は届いていないのだろうか。
 玄関のポストを調べる価値はある。
 時計を見ると、もう十二時になろうとしていた。少し日記を慎重に読みすぎた。
「早くしないと」
 日記を置いて、今度は玄関に向かった。
 こう家が広いのも考えようだ。移動が辛い。

 あと少しで玄関に着く廊下の途中で、弟の誠が現れた。
「ひっ!?」
 咄嗟に身構える。
 鞠子の顔が頭に浮かんだ。こういう時に限ってあいつは現れない!
 何故こうも、たかが子供に臆しなければならない。いや、たかが子供でも、相手は幽霊だ。
 誠は昨日よりいっそう白くなった気がする。睨みつける目つきも鋭い。睨まれただけでも
気分が悪くなる。
「お前も死ねばいいんだ」
 誠はそう言って、背を向けて駆け出して行った。
 全身の力が抜けた。殺されるものかと思い、冷や冷やしていた。寿命が縮まる思いだ。
 気を取り直して玄関に向かった。そこへ。

 ボーン ボーン ボーン・・・

「何っ!?」
 玄関の振り子時計が三時を告げた。
 馬鹿な。まだ十二時ぐらいのはずだ!
 慌てて時計を取り出して見た。時計の針は、何もしていないのにグルグル回転していた。
そして、三時をピタリと示すと、何事も無かったように秒針は正確に刻み出した。
「こんな事って・・・!」
 ペースを速めて歩いた。引きずる足が痛い。だが、かまっていられない。
 玄関に着いた。振り子時計も三時を示している。いや、もう三時一分だ。
 どうしてこんな事が起きてしまったのか。誠の仕業か!
「始まるわ」
 声が上がった。振り返ると鞠子が居たが、すぐに消えた。
 振り子時計の長針が、カチリと動いた。三時二分。
 その時、バタンッと荒々しくドアが開く音が二階から上がった。あの父親の部屋が開いた!
「くそっ、どうすれば・・・」
 とにかく鑑定結果を見つけなければ。
 玄関のドアの横についているボックスを調べた。開けるとダイレクトメールやチラシが流れ
出て来た。
 その中に、大き目の茶封筒があった。すぐさま拾い上げる。
「あなた、やめて!!」
 聞いた事も無い女の悲鳴が上がった。そして次に銃声が鳴った。
 身が竦み、反射的に二階を見た。
 二階の手摺りの傍に女が倒れている。その傍には、銃を持った男が生気が抜けたように
立っていた。
「あっ、ああ・・・」
 見ている場合ではない。早くしなければ!
 茶封筒の表紙には、こう書かれてあった。
『由美へ 訪ねたが留守だったので置いておく。頼まれていた結果だ』
 それ以外は何も無い。急いで茶封筒を破り、逆さにして中身を出した。
 中から書類がいくつか出て来た。
「どれだっ」
 落ち着いて読もうとするが、すぐ傍で惨劇が行われているため、集中出来ない。
「奥様、どうされました!?」
 ダイニングから菊恵が現れた。
 菊恵は階段を上り、その途中で母親と父親の姿を見てしまった。
「きゃああああ!? だ、旦那様っ!?」
 父親は菊恵に向けて、すぐさま銃を撃った。
 菊恵は階段を転がり落ち、そのまま動かなくなった。何も映さなくなった菊恵の目が、こちらを
向いていた。吐き気が込み上げて来る。
 書類を読んだ。とにかく読んだ。
 家族全員の名前が書いてある書類に目が留まった。
 西園寺貴之(さいおんじ たかゆき)、西園寺由美、西園寺誠、西園寺鞠子。
 各自の血液型やら、妙な線が連なった縞模様の図がある。医学の知識が無い自分には
さっぱりだが、きっとこの書類でいいはずだ。
 惨劇の方へ目をやると、父親の貴之が菊恵の死体を片付けていた。彼女の足を持ち、ズル
ズルと引きずってダイニングの方へ持って行った。
 心臓が口から飛び出しそうなくらい、激しく脈を打っていた。
 肩を弾ませて息をする。
 気を抜くと気絶してしまいそうだ。
 貴之はまったくこちらに気が付かず、そのまま二階へ上がって行った。今度は母親の由美の
死体を片付けるつもりらしい。
 そこへ、誠が玄関に現れた。突然の事で驚き、本当に腰が抜けるかと思った。
 誠は貴之のようにこちらには目もくれず、階段の方へ向かった。その時、床の血の染みを
訝しげな顔で見ていたが、気にせず階段を上った。
「ただい・・・な、何してんだよ。ママ、どうしたんだよ!」
 銃声がまた上がった。此処からでは貴之の銃を持った腕と、誠の姿しか見えなかった。
 誠の身体は後ろに倒れ、そのまま動かなくなった。
「う・・・っ、く」
 叫びすらも上げられない。この家は狂ってる!
 貴之が一階に降りて来た。今度はそこへ、鞠子が玄関に現れた。
「ただいま、パパ」
「ああ、お帰り」
 貴之は鞠子に大股で近づいて来た。思わず玄関から離れ、ホールの真ん中辺りに非難し
た。
 貴之は玄関のカギを閉めると、何も知らない鞠子の頭に銃を突きつけ、躊躇もせずに引き金
を引いた。
「う、うわああああッ!!」
 これほど大きな叫びを上げたのは初めてだ。
 鞠子の顔は一瞬にして血まみれになり、目は『何故?』というような雰囲気を漂わせていた。
 鞠子はそのままうつぶせに倒れた。貴之は鞠子の死体を黙って見つめていた。
 ふと、貴之は何かに気付いたように顔を上げた。
 視線が合った。無表情だった貴之の顔が、驚愕と怒りのような表情となる。
 そして、貴之はゆっくりと銃をこちらに向けようとした。

 殺される!!

「ま・・・待て、待ってくれ!! この書類を見ろ! 鞠子達はあんたの子だ! 此処に証明され
ている。俺を殺すのは、この書類を見てからにしろ!!」
 呂律が回らなかったが、必死の思いで叫び、貴之に書類を投げつけた。
 一瞬、貴之の動きが止まる。
 そして、そろそろと足元の書類を拾った。しかし、銃口はこちらを向いたままだ。
 貴之は書類を黙って見た。徐々に顔が強張って行く。
「・・・・・・」
 汗が額から流れ落ちた。三月だというのに、異常なほど身体が熱い。
 膝も顎も、もうガクガクと震えている。恐怖の所為で、これ以上、何も喋れない。
 やがて貴之が書類から目を外し、パサリと床に書類を落とした。貴之の肩から力が抜け、
首もうなだれる。
 嗚咽が聞こえた。泣いているようだった。
 そして、貴之は銃を持った自分の手を頭まで持って行き、やはり躊躇せずに引き金を引い
た。
 弾丸が貴之の頭を貫き、貴之は床に崩れ落ちた。
「はっ・・・! あ、あ・・・」
 息が止まる思いだった。
 ハッと気が付くと、目の前にあった貴之と鞠子の死体が無くなっていた。
 家の内装も、瞬きした瞬間に一変してしまった。壁という壁は汚れ、床は埃まみれになり、
天井の隅には分厚いクモの巣がある。窓ガラスも曇っていて、ほとんどが割れていた。階段も
手摺りが朽ちて、ボロボロだ。振り子時計も、埃にまみれて白くなり、もう時を刻んでいない。
 この屋敷は、現在(いま)在るべき姿に戻ったみたいだ。
「・・・た、助かった・・・・・・」
 全身の筋肉が弛緩した感じだった。その場に座り込み、呼吸を落ち着かせた。
 終わったのだ。そして自分は生きている。
 ポケットに手を突っ込むと、壊れた懐中時計が出て来た。これはもう質屋に売れない。床の
隅の方へ投げて捨てた。
 こんな埃臭い所は早く出ようと思い、捻挫した足を庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ん・・・?」
 パラパラと上から何かが降って来た。埃だろうと思い、頭を撫でると、石粒のような物だった。
 ガコンッと頭上で音が鳴った。
 顔を上げると、壊れたシャンデリアが目前に迫って来ていた。


 あらあら、せっかく助かったのに。やっぱり悪い事は出来ないわね、泥棒さん。
 クスクスクスクスクスクスクスクスクス・・・・


                                              了
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