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 カビ臭い倉庫で、悲鳴が上がった。
 しかし、場所が地下のため、叫びは誰にも届かなかった。
 此処に居る者達を除いて。
「お、お許しを・・・お許し下さい!」
 悲鳴を上げた男は、血まみれの腕を押さえ、情けない顔で号泣していた。
 その男の前に悠然と立っていたのは、ネオであった。
 ネオは身が凍りつくような言葉を、男に吐き捨てた。
「失せろ。今度また私の所有物を勝手に持ち出したら、もう片方の腕も使い物にならなくして
くれる」
 真紅に妖しく光った瞳で睨みつけられ、男はヒイッと叫び、尻餅をつきながら倉庫から出て
行った。
 ネオは視線を隅で震えている少女に向けた。服が少し破けている。それだけ見れば、あの
逃げ去った男が彼女に何をしようとしたか、すぐに解る。
 それを想像するだけで、ネオは虫唾が走った。
 少女はイリィと言い、一月前にネオが『拾って』来た者だ。
 イリィはネオの身の回りの事を、彼自身から任されている存在だ。
 だが、今朝から姿が見えなく、ネオはキーレンからイリィの事を聞いたところ、信者と一緒だっ
たと言われた。
 そしてネオは、直感的にこの倉庫に赴き、先程の事態に至る。
「行動は慎め。何故こんな事になった」
 怒気を帯びたネオの声に、イリィは生きた心地がしなかった。
「も、申し訳ありません・・・。少しでも、ネオ様の役にた・・・立とうと・・・。な、何か出来る事は
無いかと聞いて・・・」
「魔術も使えぬ人間が思い上がるな! その軽率さがこの結果だ、愚か者」
 ネオの怒鳴り声が倉庫に響いた。イリィは身を竦めて、懸命に謝罪の言葉を繰り返した。
 イリィはすすり泣いたが、ネオは容赦なかった。
「貴様は私に言われた事をすればいい。それが不服ならば出て行け」
「いえっ・・・いいえ! 二度とこんな事はっ」
「そうだ。二度目は無いと思え」
 イリィは安堵した。まだ棄てられずに済みそうだ。
 ネオはイリィに自分の上着を被せ、背を向けた。
「さっさと今朝の仕事を済ませろ。それが出来るのは貴様だけだ。その事をよく覚えておけ」
「・・・はい・・・・・・」
 慰めで言われたのではない事など、解っている。それでも、イリィには充分過ぎるくらいに嬉し
い言葉だった。
 ネオがイリィを傍に置くのは、ひとえにイリィが『一般人』であるからだ。
 黒魔術を使う『エボス』の連中は、信用出来ない。その点、魔術に関して無知かつ無能である
イリィは、傍に置いても害は無い。
 また、ネオはまだ自分の肉体に馴染んでいなかった。身体が動かなくなった時の世話は、す
べて無害であるイリィに任せられた。それでも、己の身体の自由が利かない事を、ネオは決し
て言わなかったが。
 ネオから渡された上着は、まるで誰も着ていなかったように温もりを感じなかった。



 冷たい。



 初めてネオと会った時、差し伸べられた手もこのように冷たかった。
 ネオがヒトでない事も、黒ミサ組織『エボス』の主導者である事も、イリィは理解している。
 しかし、ネオが何であれ、イリィには唯一の希望なのだ。
 虐待と陵辱の日々を送っていた過去に比べれば、今の生活はイリィにとって天国なのだ。
 イリィは死ぬ事より、ネオに棄てられる方を恐れていた。
「(この方のためなら何でも出来る。何でもしよう・・・)」
 ひっそりとそう誓い、イリィは上着をギュッと握り締めた。